妻恋う鹿は笛に寄る

初夏の作品

キーマカレー

車が走る音も聞こえない、猫の鈴の音も聞こえない、しんと静かな夜だった。今にも降り出しそうな雨を待ちながら、男は窓際でコーヒーを飲んでいた。眠れなかったのだ。目がらんらんとするのでもなく、ただ心が揺れて眠れなかったのだ。男には愛する女がいた。男にはもったいないような美しい女だった。ただ窓を開け放しのカーテンのように外の風の業ですぐに揺れてしまう心の持ち主だった。その心の揺らめきは美しくもあり、窓際の机の上に置いてある詩集のページをめくるだけの強さがあった。
 男は何とかしてその女の心の揺れ動きを小さくしようと試みていたが、失敗に終わることが多かった。この夜もそんな1日の終わりであり、布団を頭までかぶって眠っていたものの起き出してきて、濃い目に入れたコーヒーを飲んでいた。
 女はカレーが作るのが上手だった。中でもひき肉を使ったキーマカレーが得意だった。香辛料を効かせた辛味のある癖になる味わいで、男もそのカレーをこよなく愛していた。手放したくない、いや手放せなくなるような魅力を多く持つ女だった。コーヒーをいれるのも上手だった。男の好みに合わせて、濃い目に入れてくれるコーヒーは老舗の喫茶店のものにも引けをとらない味だった。ナチュラルな服が似合い、目が綺麗だった。そして、何よりふとした時に見せる笑顔もかわいかった。怒った顔もかわいかった。かわいいものを見つけるのも上手で気のきいた贈り物もできる女だった。こうやって女のいいところを指折り数えていると、きりがなかった。それぐらい女のことを愛しているから、男は眠れない日が出てくるのも致し方なかった。 
 冬の深夜5時前、一番深い闇。眠れない夜は長い。1分は120秒あり、1時間は120分あるのではないかと感じるときもある。
 猫が走る音が聞こえた。鈴が鳴っている。隣の婦人が飼っている猫。真っ黒な毛に金色の目の輝いている猫。警戒心は強いが、なぜか男にはなついている。男は目をつぶって猫の走る音を聞いている。真っ黒な猫を嫌う人も多くいるが、嫌う理由など見つけられなかった。
 早く夜が明けてしまえばいいのに……お気に入りのカップに入れたコーヒーも冷たくなってしまった。しかし、そうすることで心の痛みを緩和させるように、ぐいと胃の中に流し込んだ。冷たく苦味だけが喉元を刺激しながら通過していく。
 こういうのを幸せというのだろうか?男は目を開いてカーテンを開いて外を見た。真っ黒な闇に外灯だけが光っていた。分からない。ちっとも分からない……きっとそれでいいんだ。心の奥の方で自分の意志とは無関係な言葉が聞こえてきた。その言葉はきっと正しいのだろう。