妻恋う鹿は笛に寄る

初夏の作品

妖精

菜の花の撮影をしていたら、花と花の間に小指の先ほどの人間の形をした妖精がいた。うっとりするようなかわいい女の子で、
白いシルクでできた布のようなものを羽織っていて、僕の方を見ていた。僕は見てはいけないようなものを見てしまったような気がして、構えていたカメラを外して、目をこすって見つめた。


こういうのはそっとしておいてあげた方がいいと思って、その場を立ち去ろうとすると、妖精は待って下さいと言う。
「あなたにはこの先困難が待っているので、これを持って行って」
小さな声で囁いて、爪楊枝の先のようなフルートを手渡してくれた。
「あなたには幸福になってほしいの。前世で私はあなたの恋人だったから。次の世界で、あなたは人間になり、私は妖精になったの。あなたはこれまで本当に苦労したわ。そして、これからも…」
そう言って少し悲しそうな目で見た。


僕はどう答えていいものか悩んだが、その言葉を受け止めることにした。
「このフルートを持っていると少しは苦労しなくなるのかい?」
そう尋ねると、妖精は首を横に降った。
「私は力の小さな妖精で、このフルートはお守りのようなものなの。大事に持っていてね」
手のひらに載せたフルートは春風に吹き飛びそうになり、思わず握りしめた。手の力で壊れそうな繊細な細工のもので、そっと包み込むように握った。
「またいつか会えるのかな?」

 

そう尋ねると
「本当は会ってはいけないの。だから、もう二度と会えないと思う。私は妖精の掟を破ったので、今度は昆虫になるの。でも、あなたと少しでも話せて良かったわ。前世であなたは私をとっても大事にしてくれたもの」
そう言うと、妖精は姿を消した。


僕は目をこすってもう一度見つめてみたが、花が揺れているだけで何もいなかった。花と花の間を花の蜜を吸うために、蜂や蝶が飛んでいるだけだった。僕の手のひらの中には、小さなフルートが確かにあった。僕は壊さないようにそっと持って帰って、柔らかい布で包んで今でも大事に持っている。

キーマカレー

車が走る音も聞こえない、猫の鈴の音も聞こえない、しんと静かな夜だった。今にも降り出しそうな雨を待ちながら、男は窓際でコーヒーを飲んでいた。眠れなかったのだ。目がらんらんとするのでもなく、ただ心が揺れて眠れなかったのだ。男には愛する女がいた。男にはもったいないような美しい女だった。ただ窓を開け放しのカーテンのように外の風の業ですぐに揺れてしまう心の持ち主だった。その心の揺らめきは美しくもあり、窓際の机の上に置いてある詩集のページをめくるだけの強さがあった。
 男は何とかしてその女の心の揺れ動きを小さくしようと試みていたが、失敗に終わることが多かった。この夜もそんな1日の終わりであり、布団を頭までかぶって眠っていたものの起き出してきて、濃い目に入れたコーヒーを飲んでいた。
 女はカレーが作るのが上手だった。中でもひき肉を使ったキーマカレーが得意だった。香辛料を効かせた辛味のある癖になる味わいで、男もそのカレーをこよなく愛していた。手放したくない、いや手放せなくなるような魅力を多く持つ女だった。コーヒーをいれるのも上手だった。男の好みに合わせて、濃い目に入れてくれるコーヒーは老舗の喫茶店のものにも引けをとらない味だった。ナチュラルな服が似合い、目が綺麗だった。そして、何よりふとした時に見せる笑顔もかわいかった。怒った顔もかわいかった。かわいいものを見つけるのも上手で気のきいた贈り物もできる女だった。こうやって女のいいところを指折り数えていると、きりがなかった。それぐらい女のことを愛しているから、男は眠れない日が出てくるのも致し方なかった。 
 冬の深夜5時前、一番深い闇。眠れない夜は長い。1分は120秒あり、1時間は120分あるのではないかと感じるときもある。
 猫が走る音が聞こえた。鈴が鳴っている。隣の婦人が飼っている猫。真っ黒な毛に金色の目の輝いている猫。警戒心は強いが、なぜか男にはなついている。男は目をつぶって猫の走る音を聞いている。真っ黒な猫を嫌う人も多くいるが、嫌う理由など見つけられなかった。
 早く夜が明けてしまえばいいのに……お気に入りのカップに入れたコーヒーも冷たくなってしまった。しかし、そうすることで心の痛みを緩和させるように、ぐいと胃の中に流し込んだ。冷たく苦味だけが喉元を刺激しながら通過していく。
 こういうのを幸せというのだろうか?男は目を開いてカーテンを開いて外を見た。真っ黒な闇に外灯だけが光っていた。分からない。ちっとも分からない……きっとそれでいいんだ。心の奥の方で自分の意志とは無関係な言葉が聞こえてきた。その言葉はきっと正しいのだろう。
 
 
 

世の中には
格好良い奴もいる
頭の良い奴もいる
お金持ちの奴もいる
要領よくやれる奴もいる
運の良い奴もいる
僕は・・・・と考える時
いつもうつむいてしまうけれど
僕の持っているもので精一杯やれるのは
この世で僕自身だけだと思っている
誰も代わりはできないしやってももらえない
この身体まるごとで表現することに誇りを持とう
やれることはたくさんあるはず
持っているものもたくさんあるはず
生かしきれていないなら、それは自分の把握不足
いいところもそうではないところもまるごとふくめて
気持よく精一杯のことをやっていこうではないか
それでいいんだよ、それで・・・

群青色の闇が

あなたの底に向かって流れていく

金糸雀色に光る三日月も

一緒に落ちていく

瑠璃色の地球が滅亡するかのごとく

ひゅごーひゅごーと音を立てて

表面では渦を巻いている

珊瑚朱色の唇を奪うと平手打ちされたが

流れは止まった

懲りずにもう一度奪うと

静かになり、砂を蒔いたような金色の星が光り始めた

朱色に光るベテルギウスはいつか超新星爆発を起こす

僕はその時を待っている

ずっと片思いの気持ちを抱いたまま

美しく覚醒していくあなたのそばで

お姫様と吟遊詩人

 

あるところに美しいお姫様がいました。人づきあいが苦手で、王様が近隣の名だたる名士を招いて舞踏会を開いても、なかなか出席しようとはせず、お姫様にひと目会いたい若い名士たちを、いつもがっかりさせていました。

森の入り口の林の荒屋に吟遊詩人が住んでいました。愛の歌、人生を詠んだ詩を歌いながら、薪にする枝を拾い細々と暮らしていました。

ある日、お付きのものを引き連れて、そっと森を散策している間に、皆とはぐれてしまい、森の中をさまよいました。森の中には獣たちはいるし、盗賊たちも寝ぐらにしていたので、お姫様のような美しい人がさまよっていると、格好の餌食となって、ひどい目に合わされるのは時間の問題でした。

心細くなって夜も暮れていこうとしている時に、運良く吟遊詩人に見つけてもらい、お城まで連れて帰ってもらったのが出会いでした。二人はすぐに打ち解けて、昔から知っていた友人のようにたくさん語りながら歩きました。お姫様は森でさまよっていたことも忘れるぐらい、楽しいひと時を過ごしました。

お姫様と吟遊詩人の間には身分の違いを越えて、絆ができようとしていました。お姫様はお付きのものの目を盗んでは、吟遊詩人に会いに行きました。身の危険も感じる林まで会いに行きました。二人に恋が芽生え、欠かせない人になるまでにそう時間はかかりませんでした。

抱きしめ合いながら、詩を詠んだり芸術の話をしたり、森に咲く花の話をしたり、話題は尽きることがありませんでした。その日も夢中になって、語りあっているうちに固く抱きしめ合い過ぎて、吟遊詩人はお姫様の腕の中で息絶えてしまいました。

慌ててお姫様は吟遊詩人が息を吹き返すように手を尽くしましたが、帰らぬ人になってしまいました。嘆き悲しむお姫様は森の中へ穴を掘って、吟遊詩人の亡き骸を埋めてしまいました。お姫様はその後、毎日のように泣きながら埋めた場所へ花を持っていき、吟遊詩人の死を悼みました。二度と帰って来ない日々。お姫様の通った場所には一本の道ができていました。

そういう日が長く積み重なって、お姫様は盗賊に見つかって半死半生の目に合わされて亡くなってしまいました。無くなる寸前に、これで吟遊詩人のそばに行けると、涙をこぼして命果てました。

そうやって長い輪廻転生の末に、二人は片時も離れることなく、何かの関係になって巡り合い、愛を深めていくのでした。

子どものお遊びみたいに無邪気

そうやってあなたのすべてを諦めている感じが好きなの

のんびりと構えて、自堕落で、遊んでて・・・

でもね、本当のところ

諦めているように見えて、ちっとも諦めてない

あなたのそういうところ、長い間付き合ってみないと分からないから

人から誤解されがちだと思うけれど、好きよ

長距離走者でもなく、短距離走者でもなく

スキップしたり、ダッシュしたり、歩いたり、止まったり、逆走したり

アスリートと言うよりは子どものお遊びみたいに無邪気

でも、真面目なのね